百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》について

今回私は、この作品のために木下知威(きのした・ともたけ)さんという方と対談をさせて頂きました。
木下さんは現在建築史の研究、視覚文化論などの研究をされている方でいらっしゃいますが、
生まれつき全く耳が聞こえません。
耳の聞こえない人が「聾者」と呼ばれるのに対し、耳の聞こえる人は「聴者」と呼ばれるそうです。
この映像は、聾者である木下さんと聴者である私とで行った、
「声」をめぐる対談を記録し編集したものです。

http://ayamomose.com/news.htmlより


 自分がこれまで当たり前だと思い込んでいたものが、ずるずると崩れ落ちていくのが如実に感じられ、作品内の「しかけ」により、少なくとも二度、戦慄を覚えた。
 普段私は、なんのきなしに話し言葉を使うことによって、人とコミュニケーションをとっている。話すことによって「声」を発し、そしてまた相手の「声」を聞きとり、会話を成立させている。
こんな当たり前のことが、当たり前のことでないように思えてしまう経験は、おそらく初めてのことであっただろう。

 本作品は、聾者である木下さんと、聴者である百瀬さんが、手話や書き言葉ではなく、口話によって会話を進めていくという約25分間の映像作品だ。
 聾者である木下さんは、百瀬さんの発する「声」でなはく、彼女の口の動きをもって、言葉の意味を理解しようとする。(正確にはわからないが、木下さんが言葉を理解するにあたり、口以外の動作――体や頭、視線や眉の動きやあごの引き方などが、文法上極めて重要な役割を果たしているのだろう。)
 一方の百瀬さんは、木下さんの発する「声」を聞いて、その言葉を読み取る。(ただ、木下さんの発声は、聾者の「声」であり、聞き取りにくい部分も多分にある。これを聴者の「声」と、同一には捉えがたい。)

 この両者の会話によって、まず第一に指摘できることは、互いに自らが相手に向けて発している「言葉」を意味する記号を、自らが理解できないものだということだ。
 木下さんは、自分の発している音声言語である「声」を聞くことができず、百瀬さんは読唇術を身につけていないので、自身の「口の動き」を読み取ることはできないのである。
 互いに有限的で、自らの発する記号を理解できず、また相手の理解できない記号を読み取っているという、アンビバレンツで、ある種共有不可能な状況にも関わらず、それでもなお会話は成立し、話は進んでしまう。

 その会話には、二人の間に大きな壁やノイズが確実に存在している。それを超えて、かろうじて二人の会話を成立させているのが、“誤読”や“解釈”、あるいは“補正”といった、とても曖昧で不確かなものなのである。
二人の会話が、この「とても曖昧で不確かなもの」に支えられているという現実に、ただただ驚かされた。

 共有不可能性を伴ってなお、共有可能であるという矛盾的状況の会話を、より一層に際立たせるための「しかけ」が、作品の中盤以降に、提示されることとなる。これによって、それまでの会話をかろうじて繋ぎ止めていた「誤読」がはっきりと現前するだろう。

私は国立新美術館の五美大展で本作を観た。

 写真の通り、ヘッドフォンを着用し作品を鑑賞しなければならないという環境だ。鑑賞環境としてはあまりよくないかもしれない。(そもそもヘッドフォンが二つしかなく、モニターの後ろ側は通路になっていて人通りが多い。)しかし、ヘッドフォンをつける人/つけない人が、ある意味で、聴者/聾者のような構造になっており、おそらく作家自身は意図していないことであるとは思うが、それもまた面白く感じられた。

2013年4月3日(水)〜25日(木)に武蔵野美術大学の優秀作品展で上映があるそうだ。
優秀作品展 | 武蔵野美術大学

 少し遠いが、久しぶりに鷹の台に行こうと思う。